~第二話~
どうゆう訳か、僕の幼少のことを書く必要を感じている。
母は美人で、母の妹は超美人、若い男達がよく覗きにきたというが、17歳で結核を患い他界。
父は秀才、或る日桐の細長い箱を見つけ、開けてみたら優等証書が一杯、書道家の家に生まれ育った父が、どうして静岡の呉服屋なぞに婿入りするなど、全く不可解。
お見合いで母は、父が部屋を出る時に彼の襟足をチラッと見ただけで結婚。
そういう時代。
父の青年時代の写真に、二本の日本刀の刃を上に向け素足でその上に立ち、腕に五寸釘より太い鉄棒を両腕に刺し毅然と微笑んでいる写真がある。
父は、アルバムの随所に詩を書き留めていて、書道の教師にも難解な掛け軸が、いま僕の部屋に掛かっている。
そんな父がどうして、呉服屋に来たのか全く不可解。
父親の秀才が親族の誰かに現れるかと見張っていたが、兄弟は勿論のこと、孫、ひ孫と誰ひとり、受け継いだものはいない。
終戦間近、B29爆撃機が数えきれない程やってきて、一晩で全ての家を焼き尽くした。
火の海の中を必死で逃げ伸びた思い出は、子供の僕に深い傷を残した。
(この体験は、エクササイズ・感情の記憶として、絶望感、恐怖心を舞台で表わす時に役立つ。)
僕は、両親から一度も叩かれた記憶が無い。
金庫からお金を盗んでいた僕を見て、母は一言も言わなかった。
勉強が嫌いで、姉が心配して机とお菓子を用意したが、隙を見ていつも逃げ出した。
小学二、三年の頃だと思っているが、夏休みになるのをまちかまえて、父の姉の家に駆けつけて、1ヶ月間朝から晩まですぐ裏手にあった巴川に釣りに出かけた。
その伯母は清水の女次郎長と言われ7人の女ばかりの娘達を、礼儀、作法を始め全てを厳格に徹底して教育した。
(男の子がいない家族のせいか、伯母は僕にはとても優しかった。)
伯母は、僕の母を子供に対して自由放任主義だと強く批判していた。
母の思い出は、僕が、高校の時、明日友達とお祭りに行くと言ったら、徹夜で浴衣を仕立ててくれた。
そのまっ晒しの浴衣を着て、友達と出かけチラッと振り向くと、道の真ん中に立って、幸せそうにジーッとこちらを見ていたのを覚えていいる。
父が病弱のせいもあって、母は50過ぎて自転車を習い行商に出かけた。
僕が長男で家業を継いでくれることを唯一の楽しみにしていたと思う。
しかし、日大芸術学部の合格通知が届いた。
生まれて初めて母の前に正座して向き合った。
「東京に行きたいのね。行っていいよ。」
母は前掛けを握りしめ涙が溢れていた。
僕は、母の元を後にした。
僕は、勝手気ままで、10年以上ニューヨークにいて、一度も母に手紙を書いたことが無い。
帰国した時に、母は僕のことが心配でよく眠れない日があったと妹から聞いた。
母の葬儀に参列した人達が、
「あんたのお母さんは愚痴を言ったことが無い、聞いたことが無い。」
と言っていた。
「あんたのお母さんは愚痴を言ったことが無い、聞いたことが無い。」
と言っていた。
僕の母は天使だったかもしれないと思っている。
清水の伯母は、晩年、癌にかかった。
伯母の娘達は何一つ行動を起こせず、ぼくの兄弟が伯母を車に乗せて、東京の医者に連れて行き、アッチコッチ東京見物させて、伯母はとても喜んだと言う。
(当時、ぼくはニューヨーク)
伯母はつくづく
「僕の母の教育が、正しかった」
と言っていたという。
「僕の母の教育が、正しかった」
と言っていたという。
ZEN