2017年6月11日日曜日

第26回「神と の対話」のすすめ

≪抑圧された感情について No.4≫
~感情の解放 ~

 最近、周りに目を向けると、みんなで踊ったり、歌ったりして集いを行ったりしているのを見かける。泣いたり、笑ったり、抱き合ったりして、歓びを分かち合い、人々は、みんな兄弟だという一体感を目指して活動しているのを目のあたりにする。
とても、素晴らしことだと思う。
しかし、我々は、別のアプローチを取る。
ひとりひとりが
自分の抑圧された感情を手放し、
自意識から解放され、
本来の自分を体験した後に、
お互いが在るが儘の自分で向き合ったら、
何が起こるかみてみようということに関心を持つ。
各々が、
自分自身の感情をフリーにする事によって、
自然発生的に素晴らしい交流が生まれる。
あまりにもオープンで、
子供のように、
無邪気に喜びを表わす。
我々のこの様なアプローチは、長い年月をかけ、
試行錯誤し、実験を重ね完成させたものだ。
其れをゼン・ゼミ マーチと命名した。
30年ほど前の夏、美ヶ原のキャンプ場に、1ヶ月半ほど立ちこもって、「どうしたら、知らない同士が集まって、努力なく、自意識なく、そして、自己主張なくお互いに心を開くことが出来るか。」
という命題に、毎日、真っ向から取り組んだ。
僕は、物事を直感的に処理する性格なので、これ程、長い時間をかけ悩み抜いたことは無い。
そして、ゼンゼミ マーチの誕生である。
(パテントを申請中。この、一見簡単なエックササイズを指導するには、深い理解と、情熱と経験が必要)
このエクササイズを創るに当たって、
まず最初に解決しなければならない問題は、
知らない同士が集まると自意識を持ち易い。
その自意識からフリーにするためには、大きな輪(サークル)をつくって行進することだと考えた。
そうすれば、前の人の背中しか見えないし、全員が「右、左、右、左・・・」大きな声を出して、行進すると、周りの人を見たり比べたりする余裕はない。
自意識からフリーになる。
また全員が足を揃えて行進するので、一体感が生まれる。
行進は最後まで続く。止めるわけにはいかない。
一人止まれば全員が止まることになる。
行進しながら、
「私は、めくらのモグラです、メクラメッポウ穴を掘る。もぐもぐ、もぐもぐ・・・」
等々、
インストラクターの言葉を口移しに叫んで、勝手気儘なジェスチャーで動き回る。
人と比べる暇がない。
そして、次から次へと課題が続く。
例えば、別の例を挙げると、
「片足5センチ短くて,驚くほどの近眼で、お尻もぷりぷり震えます。首があさって向いていて、頭を掻きむしるクセがある。オマケに笑いが止まらない。、、、、、ワッハッハ」
右、左と足踏みを揃えて、大きな声と勝手気儘なジェスチャーで行進していく。
上記の目的を解説すると、
「片足5センチ短くて」は、
片足5センチ短くして歩かせると、びっこを引き体のバランスを崩す。人生では常に体面を気にしてバランスを崩すのを恐れるので、びっこを引かせてガードを取り去る。
「驚くほどの近眼で」は、
我々は、毎日の生活の殆どを目に頼っている。目隠しすれば、コーヒー一杯飲むのも難しい。視覚を奪って不安定にさせガードを取るようにする。
「お尻もぷりぷり震えます」
又、お尻をぷりぷり振れば、その人の築き上げてきた、体面や、人格やステイタスを失う。
校長先生や、大臣がお尻を振るのを想像してみるといい。
「首が、あさって向いていて」
首をあさって向けろと言われったって、誰もあさっての方向など知らない。いい加減でいいんだ、無責任で良いんだと思わせるのが狙い。
「頭を掻きむしるクセがある」
頭の髪を掻きむしりながら大きな声をあげて、フラストレーションをあっけらかんとぶちまける。この頃には、感情が、すったもんだ解放されるため、
「オマケに笑いが止まらない」
で馬鹿笑いがとまらなくなる…。
その他、このマーチの中には、
わらべ唄を歌って子供に返ったり、
お花になったり、ゴリラになって胸を叩き力を誇示したり、
怒りを発散させたり、ワルツがあったり等・・・。
誰一人、僕が、それぞれの人の、抑圧された感情を解放させるために、どれほどの時間、経験、洞察、集中力を総動員してこの『ゼンゼミ マーチ』を、創ったか、みゆき以外に誰もしらない。
まったくそれで良いのだ。
30年たった今も、
みんな大喜びして帰っていく。
ZEN