2017年6月25日日曜日

第28回『神との対話』のすすめ




『神との対話』に、
「在るが儘の自分を取り戻す事」
と、書かれている。
在るが儘の自分とは何か?
それを取り戻すには、一体何をしたらいいのだろう?

人々は自分の体と心に不必要なものを取り込んできた。
農薬漬けの野菜を食べ、暴飲暴食、タバコを吸い、運動不足、汚染された空気の中に住み、過去を悔やみ、未来に不安を抱え、自分の身体や精神に不必要な堪え難い圧力をかけてきた。
余談になるが今、不思議なことを体験している。
一年程前、小柄で中年の魅力的な女性が現れ、毎週3回ほどやってきて、この三階建ての大きな建物を端から片付け始め、「これ、要らないでしょ? 捨てましょうよ。」と。
僕はそれは想い出があるのだけれど…と思っても、ニッコリとした、厳しい顔を向けられて、三階の窓から捨てることになる。見下ろすと、廃棄物は八畳間いっぱい分以上の量になった。
又、彼女の掃除の仕方が半端でない。
バキュームを床に押し付け、振り回して、埃は 絶対見逃さない、まるで敵討ちの現場に立ち会ったようだ。そして雑巾掛けは、拭くのではなく磨き上げるのだと言う。
本人は、掃除が好きで、心の風通しが良くなり、霊性を高めるからだという。
(こうゆう人をお嫁さんになってもらうといい。ただし、夫もゴミとして処分される危険性がある。)
ここの家の空気が清められ、霊性が流れ始めた。
目に見えない何かが、ここを訪れる人々に、寛ぎと悦びをあたえているのは確かだ。
我々も、体に溜め込んだ汚れを掃き出して風通しを良くしなくては。

自分の体内に居座て居る汚れは、抑圧された感情だ。
幼児期から他人に植え付けられた感情(悲しみ、怒り、羨望、不安がからだの筋肉や神経系統にへばりついて居る。)これらの汚れを掃き出して、風通しを良くする。それが、在るが儘の自分を取り戻す方法だ。
押さえ込まれた否定的な感情を吐き出すには、椅子に座ったり、床にころがたり、ジャンプしたりして、体を大暴れして動かす。
習慣をぶち破り、普段やったことのない、滅茶苦茶な動きをし、緩め、ずらし、大の字に広げることだ。
そして、酒乱の如く暴れ回り、どんな感情でも、感じたら、その感情を罪悪感なしに、気違いじみて、大きな声を出して外の世界に吐き出すことだ。
つまり、からだの中に永年溜まったゴミを外に掃きだす事。
大切なことは、最後に、
「あゝ面白かった、清々した」
と、大声で叫んで、良い気分で終わることだ。
(『神との対話』では、内なるものを、外に、目の前に置いてみる事だと言っている。)
これらの方法で、永年、身体に住みついた悲しみ、怒り、羨望、不安を手離し、本来の自分、在るが儘の自分で立つ事が出来るようになる。
もう一つ大切な事は、上記の課題を何回かやってみて 、自分にとって、本当に効果があったかどうか、胸に聴いてみる。
もし、効果が無かったら無視する事だ。
そして、感情の解放の自分の独自のアプローチを見つけることだ。
(感情の解放の、訓練を文章で説明することは,難しい。いつか動画でお伝えしたいと思っている。)
ZEN

2017年6月18日日曜日

第27回『神との対話』のすすめ

これまでの40年間の長きにわたり、無遅刻、無欠席、無我夢中で、人々を指導してきた。
仕事を離れた今、ふと立ち止まり、時々、
僕は一体全体何をやってきたのだろう?
本当に人々の役に立ったのだろうか?
みんなの人生の大切な日々を僕の独断と偏見で無意味なものにしてしまったのではなかったかと、自分を攻める時がある。

『神との対話』に、
「全ての出来事は、自他共に、何かを学ぶために、成長の為に、用意される。」
と書いてある。
考えてみれば、人間という聖なる存在を傷つけることが出来ると考えることこそ、おこがましいと思った。
ふと、思い付いて、昔のアルバムを紐解いてみた。
どの写真も、生徒たちの喜び溢れた笑顔で埋め尽くされていた。
あの当時、遅刻、ゴシップ禁止、みんなで一丸となって訓練に没頭したあの青春時代。
一人一人の胸の奥深く、一粒の種を蒔いたのかもしれないと思った。
是非、花を咲かせて欲しい。
又、当時を思い出す一つの出来事があった。
以前、巣鴨の駅の近くにあった4階建てのビル。その最上階を借りてクラスを開いていた。
或る日の事、表玄関に鍵が掛が掛かっていて、入れない。裏に回ってみたが、鉄のシャッターが降りていた。困った。
今日はクラスが開けないと思ったその途端、スタッフの一人、Yが何も言わずに、近くに駐車してあったバンの屋根に飛び乗り、そこから電柱に飛び移って4階の高さまでよじ登り、窓を開け入り込み、1階のシャッターを開けた。あっという間の危険極まりない出来事だった。(本人も後になって脚が震えたと言っていた。)
生徒たちのクラスに対する、ひた向きな情熱が、熱く伝わってきた。
みんなの青春だった。
今、思い出しても熱いものが込み上げてくる。
ここ何年か、生徒を一切とらないで、妻、ミユキと静かに暮らしている。
僕の、残された人生で、何か人の役に立てないか、自分の知識、経験、信条を通して貢献できないかと考えている。
先日、ここ、河口湖スタジオの卒業生が、久し振りに4人ほどやって来た。
その内二人はここで知り合って結婚し、嬉しげに子どもを抱え、又、一人は女性で、武術を教えているとの事、はしゃいでいた。もう一人は、スッカリと大人になり、ハンサムでとても魅力的、美しい微笑みを絶やさず静かに立っていた。
考えてみれば、そのうち二人は、10年ほど、そして、一人は5年ここ河口湖のスタジオで、僕やミユキと寝食を共にし、毎朝、5時に起き稽古に励んできた連中だ。
この人たちこそ、次の世代のリーダーシップを担う人々だ。
ガンバってもらおう。
彼らに会った後ふと、気が付いて教師としての認定書を出すことにした。
「とても、嬉しいです。 来週、伺います。よろしくお願いします。」
とのメールが届いた。
僕の残された人生でなにをやるべきかを考えていた矢先、『神との対話』の一節が目にとまった。

「人々に、その人自身を取り戻してやること、それを、あなたの務めに、最大の喜びにしなさい。」
と。

僕が 、ザ ・アクターズ スタジオの恩師リー・ ストラスバーグから学んだ事の一つは、
俳優を人間にすること、
あるがままの自分にすることだ。

あるがままの自分でいる事は、
一般の全ての人の要求だ。
それには、
自分が感じたことをあるがまま、
感じるがままに表す事が出来るようにする事だ。
(そのための、具体的なアプローチについては 、次回につづく。) 
ZEN

2017年6月11日日曜日

第26回「神と の対話」のすすめ

≪抑圧された感情について No.4≫
~感情の解放 ~

 最近、周りに目を向けると、みんなで踊ったり、歌ったりして集いを行ったりしているのを見かける。泣いたり、笑ったり、抱き合ったりして、歓びを分かち合い、人々は、みんな兄弟だという一体感を目指して活動しているのを目のあたりにする。
とても、素晴らしことだと思う。
しかし、我々は、別のアプローチを取る。
ひとりひとりが
自分の抑圧された感情を手放し、
自意識から解放され、
本来の自分を体験した後に、
お互いが在るが儘の自分で向き合ったら、
何が起こるかみてみようということに関心を持つ。
各々が、
自分自身の感情をフリーにする事によって、
自然発生的に素晴らしい交流が生まれる。
あまりにもオープンで、
子供のように、
無邪気に喜びを表わす。
我々のこの様なアプローチは、長い年月をかけ、
試行錯誤し、実験を重ね完成させたものだ。
其れをゼン・ゼミ マーチと命名した。
30年ほど前の夏、美ヶ原のキャンプ場に、1ヶ月半ほど立ちこもって、「どうしたら、知らない同士が集まって、努力なく、自意識なく、そして、自己主張なくお互いに心を開くことが出来るか。」
という命題に、毎日、真っ向から取り組んだ。
僕は、物事を直感的に処理する性格なので、これ程、長い時間をかけ悩み抜いたことは無い。
そして、ゼンゼミ マーチの誕生である。
(パテントを申請中。この、一見簡単なエックササイズを指導するには、深い理解と、情熱と経験が必要)
このエクササイズを創るに当たって、
まず最初に解決しなければならない問題は、
知らない同士が集まると自意識を持ち易い。
その自意識からフリーにするためには、大きな輪(サークル)をつくって行進することだと考えた。
そうすれば、前の人の背中しか見えないし、全員が「右、左、右、左・・・」大きな声を出して、行進すると、周りの人を見たり比べたりする余裕はない。
自意識からフリーになる。
また全員が足を揃えて行進するので、一体感が生まれる。
行進は最後まで続く。止めるわけにはいかない。
一人止まれば全員が止まることになる。
行進しながら、
「私は、めくらのモグラです、メクラメッポウ穴を掘る。もぐもぐ、もぐもぐ・・・」
等々、
インストラクターの言葉を口移しに叫んで、勝手気儘なジェスチャーで動き回る。
人と比べる暇がない。
そして、次から次へと課題が続く。
例えば、別の例を挙げると、
「片足5センチ短くて,驚くほどの近眼で、お尻もぷりぷり震えます。首があさって向いていて、頭を掻きむしるクセがある。オマケに笑いが止まらない。、、、、、ワッハッハ」
右、左と足踏みを揃えて、大きな声と勝手気儘なジェスチャーで行進していく。
上記の目的を解説すると、
「片足5センチ短くて」は、
片足5センチ短くして歩かせると、びっこを引き体のバランスを崩す。人生では常に体面を気にしてバランスを崩すのを恐れるので、びっこを引かせてガードを取り去る。
「驚くほどの近眼で」は、
我々は、毎日の生活の殆どを目に頼っている。目隠しすれば、コーヒー一杯飲むのも難しい。視覚を奪って不安定にさせガードを取るようにする。
「お尻もぷりぷり震えます」
又、お尻をぷりぷり振れば、その人の築き上げてきた、体面や、人格やステイタスを失う。
校長先生や、大臣がお尻を振るのを想像してみるといい。
「首が、あさって向いていて」
首をあさって向けろと言われったって、誰もあさっての方向など知らない。いい加減でいいんだ、無責任で良いんだと思わせるのが狙い。
「頭を掻きむしるクセがある」
頭の髪を掻きむしりながら大きな声をあげて、フラストレーションをあっけらかんとぶちまける。この頃には、感情が、すったもんだ解放されるため、
「オマケに笑いが止まらない」
で馬鹿笑いがとまらなくなる…。
その他、このマーチの中には、
わらべ唄を歌って子供に返ったり、
お花になったり、ゴリラになって胸を叩き力を誇示したり、
怒りを発散させたり、ワルツがあったり等・・・。
誰一人、僕が、それぞれの人の、抑圧された感情を解放させるために、どれほどの時間、経験、洞察、集中力を総動員してこの『ゼンゼミ マーチ』を、創ったか、みゆき以外に誰もしらない。
まったくそれで良いのだ。
30年たった今も、
みんな大喜びして帰っていく。
ZEN

2017年6月4日日曜日

第25回『神との対話』のすすめ

≪抑圧された感情について≫
~続編~
ゼン・ヒラノ
ここ河口湖でクラスをスタートさせようと思っている。
ここ河口湖スタジオでは、ザ・アクターズ スタジオの精神を引き継いで(宗教、政治、男女差別、年功、ゴシップ等一切を排除)、個々の人間的成長を目指してクラスを開く。
訓練によって、各自が抑圧された感情からフリーになり、
あるがままの自分、本来の自分を表すことによって、
真の人間関係が生まれ、大きな喜びを体験する事が出来る。
クラスの終わりに、よく、みんなが、泣いたり、笑ったり、自然発生的に、抱きあったりする。
感情の解放の具体的なアプローチは、井戸にたまった濁り水を掻き出すと、透きとおった新鮮な水が湧き出してくる。
濁った水とは、幼少期から溜め込んだ感情、[怒ってはいけない、泣いてはいけない、不安を見せてはいけない等々]、と云われて押さえ込んだ抑圧された感情だ。
怒りや、悲しみの感情を持つこと自体は問題がない。
問題は、それらの感情を押さえ込んで、自分の体の中に溜めてしまうことだ。
それを感情の抑圧と言う。
感情を抑圧することは、人間の精神にも、肉体にも大きなダメージを与える。
では、その感情をどこで、いかに、押さえ込んでいるか。
それは、筋肉や骨や、体のあらゆる部分で。
特に腰は重要な感情を抑え込むと云われる。
目の前で、肉親を失うなど、悲劇に直面した時に腰を抜かし錯乱状態になる。
泣きたい時、歯を食いしばったり、怒りを首を固めたりして抑え込む。
つまりブレーキをかける。
否定的な感情を持つこと自体は問題ない。
感情の無い世界など誰も住みたく無い。
泣いたり、笑ったり、怒ったり、喜怒哀楽が人生をカラフルにする。
問題は、感情を押さえ込んでしまうことだ。
多くの人達は、日々の生活で、「気を付けろ、気を付けろ」と、ブレーキをかける。
其れを不安と呼ぶ。
ブレーキばかり踏んでいたら、どこにも行き着かない。
たまには、ブレーキを放し未知の世界に突っ走ってみよう。
それが、感情の解放だ。
体の中にあって、感情を押しとどめているブレーキを外していく作業。
それが、感情の解放だ。
(ブレーキを外したからといて、相手を罵倒し、殴り倒すことは、起こらない。ブレーキをかける練習は、一生やってきたからだ。かけたい時には、いつでもかけられる。)
感情の解放の具体的なアプローチは、自分自身の体の緊張した部分を見つけ緩めていく事だ。
僕の仕事は、本人に自分の身体のどの部分が緊張しているかの気づきを与え、自分自身で緊張をとる能力を身につける手助けをすることだ。
その時、大切なことは、何か(悲しみ、怒り、嫉妬心等)を感じたら、その感情を声に乗せて外の世界に解き放つことだ。
実際に、スタジオという、安心して感情を解放出来る、守られた場所で、僕のガイドに従って、体を緩めたり、ずらしたり、広げたりさせながら、感情の解放に導くのだが、と言っても、一人一人、問題点が違うので、具体的に、この場で説明するのは難しい。
ZEN
注) 押し入れに入り、布団を被り、または車での走行中、それか富士山のてっぺんで「ぶっ殺してやる。バカにするな!」と気がすむまで何回も叫んでみたり、「悲しいよー、みんないなくなちゃたー!」と気の済むまでおいおい
と泣いたらいい。
感情は外に出たがっている。
大切なことは、終わったら、感情を引きずらないで、
「ああ、清々した。楽しかった。」
と大声で叫んで明るく幕を閉じる。
(感情の解放の重要性については、神との対話、第3冊の第1章に書かれています。)