僕は、どうゆう訳か有名人に好かれた。
ほとんど、自宅に人を呼んだことのないストラスバーグは、僕に毎週遊びに来るように言われたし、
アメリカNO.1の演出家エリア・カザンが、たった2人のリハーサルを、雪の中1時間以上も歩いて見に来てくれたし、
僕の演出した『藪の中』を観たポール・ニューマンに、
「ゼン、全てをまかせろ、売り出すから日本に帰るな!」
と言われたし、
人の勧めでイヤイヤオーディションを受けたら、演出家とプロデューサーがやって来て
「実は、ゼンのパートは無いが、40分付け足すから出てくれ」
と言われた。
又、演出のえの字も知らないのに、川端康成の『雪国』を5分でいいからと、美人の女優に強引に進められて(演出って何のことか知らなかった)、気がついたら1時間以上になり、スタンディング・オベーション。
メンバー達は、直ぐ本を買いにいって読み、
「ゼン!あんたの演出したことは、どっこにも書いてない」
とクレームが来た。
「ゼン!あんたの演出したことは、どっこにも書いてない」
とクレームが来た。
しかし、僕は作家に対する畏敬の念からナレーターも入れて、一字も余さず演出した。
又、訳も分からず演技したら(アクターズスタジオでは、あり得ない事だが)、冷静なストラスバーグが、思わず立ち上がって
「ここにプロデューサーがいたらゼンは主役だ!」
と叫んだ。
「ここにプロデューサーがいたらゼンは主役だ!」
と叫んだ。
アル・パチーノやデ・ニーロが5,6年かけてメンバーになったのに、年に一度の最終試験に3日前に強引に招待されて、メンバーになってしまった。
当時、この演劇の世界に全く、無知で、どうゆう訳かあまり親しく無い女性に、見学者として、アクターズ・スタジオに放り込まれて奇妙な人生がスタートした。
当時、スタイルが良くハンサムだったのかもしれない。
恩師ストラスバーグが急死し、僕の人生であれほどショックを受けたことはなかった。
何日か、泣き続けた。
その直後、ニューヨークを後にした。
NYから40日間かけてバイクでロサンジェルスに向けて旅立った。
「恩師 ストラスバーグよ サヨーナラ! 心から愛と感謝を!」
NY ザ アクターズ・スタジオ
正会員
ZEN HIRANO
ZEN HIRANO
写真は、アメリカ大陸音団を終え、日本に辿り着いた直後のZEN HIRANO