2017年11月1日水曜日

俳優を目指す若者たちへ

「リラックスについての具体的訓練」
 
 
まず、初めに自分の身体の何処が緊張しているかを見つける。
 
 見つけたらその部分を緩まるようにユックリと動かして、緩んだかどうかチェックする。

この訓練に必要不可欠なことは集中力だ。

時間をたっぷりと使って、集中して、深く…深く…。

集中力は、金槌でクギを打つようでなく、ねじ釘をユックリと回しながら深く入っていくようにする。

優れた俳優は、時間をたっぷりと取ることができると云われる。

訓練は結果を追い求めず
「何が起こるか見てみよう」
と心に言い聞かせる。


脳は、体に動かせと命令すると比較的簡単に簡単に体は実行する。

リラックスの訓練とは、脳が緊張している部分に、リラックスしろと命令し、体が即実行に移すようにすることである。

釣り人形のように、どの糸を緩めると、どの部分が緩まるのか探す仕事に似ている。

『難しいことを楽に出来るようにしよう。
楽に出来ることを習慣にしよう。
習慣を美しいものにしよう。』
(スタニスラフスキー)


まず、舞台で、カメラの前で明るく、軽やかで、柔軟で、美しく、リラックスした姿で立てるようにしよう。

ZEN


 

第44回 『神との対話』に魅せられて

『神との対話』第三巻450ページあまりを読み終えて、どうしても大切

なメッセージを理解できないで、置き去りにした思いが強く、最初のページから読み直すことにした。
...
『神との対話』に
「人生のすべてはあなたが、そして、あなたにかかわる全ての魂があなたにとって必要な方向へ、そして望む方向へ成長するために起こっている。」
と書かれてある。


そして今、改めて両親のことを振り返ってみると、一度も叩かれた記憶がない。
僕が金庫からお金を盗んでいるところをおふくろがみていたが、ちょっと悲しそうな表情だったが、一言も言わなかった。

父親が病弱のこともあり、母は、僕が高校を卒業して家業を継いでくれることを心待ちにしていただろうに、
「東京に行きたいのね。行っていいよ。」
と言った。


母の顔に初めて涙を見た。

ニューヨークに住み着いて10年以上、母に一度も手紙も電話もした事がない。

後で聞いた事だが、僕のことが、心配でよく眠れないことがあったと言う。

又、友達や、恋人達が無条件で僕を支えてくれたのに対し、勝手気儘、自分本位で振舞って来たことは否定できない。

これらの自分の行為が上記に書かれている様に自分の成長に役立っているとは、とても思えない・・・。

しかし、今の今まで意識しなかったが、よくよく考えてみて、周りの人々に対する悔いの多い過去の経験が、魂のレベルで『神との対話』の本に出逢うチャンスを与えくれたのかもしれない。

だから、15年間もの長きに渡って、肌身離さず、読み続けてこれたのかもしれない。

毎日、同じ本を読ん読みつづけ、我儘なぼくに、感動を与え続けてくれたのは、両親であり友人達だ!とつくづく実感させられた。

なんとしてでも、少しでも『神との対話』に書かれてあることを実践することで、お世話になった人々に感謝の意を伝えたいと願っている。

ZEN

 

第43回 『神との対話』に魅せられて



この一年あまり、人の勧めもあって、この建物と庭を人々に提供して来た。..


先日、アフリカンダンスの会( 現在のミユキの生徒が主催したもの)で、30人以上の人々が集まり、踊ったり、歌ったりして、和気あいあい素晴らしいイベントとなった。

しかし、この会を最後にエンジェルガーデンを終了する事になった。

これからは、ミユキも僕も永年培ってきた人間の成長を手助けする役目を全うしたいと決意したからだ。

人、それぞれが持つ自分の素晴らしさに気づきを与え、それを表現に導き、体験に導き、喜びを持って自分の選んだ道を歩んでいけるよう。
そのような、人々の人生の成長の手助けをしたい、これからの社会のリーダーシップを持つ人材を育成したいと心から願い、今、より、具体的に計画を進めている。

KT(『神との対話』)に成長は神の存在の証と書かれていた。

我々が携わって来た俳優訓練は、俳優を人間にする訓練だと言われる。

考えた振りをするのでは無く、本当に考え、本当に感じた事を言葉にし、行動に移し、表現する。

しかし、殆どの俳優は、考えた振りをして記憶された台詞を喋り、感じた振りをして表情をこしらえ、決められた振り付けを機械的に演じてみせる。

(トップクラスの俳優達は、リハーサルは人一倍重ねても、リハーサルは無かった、今、初めて目の前にこれらの出来事が刻々と身の前に起きているという実感を持つ。それをモーメント、モーメントの演技と言う。)

しかし、我々の人生も下手な俳優のように振舞っているかもしれない。

自分で考えもしないで、他人に植え付けられたセリフを喋り、感じもしないのに感じた振りをする。

嘘をつく。
行き当たりばったりの行動を起こして自分を見失う。

全ての原因は、不安に基づくからだと『神との対話』に書かれてあった。

今、人差し指を舐めながら打っているこのエッセイを、僕が、愛に基づいて書くとしたら、どんな文章になるだろう

「みなさん! 是非、この『神との対話』の本を読んでみてください。この本の素晴らしさは、僕の能力ではとてもお伝え出来ませんので。」
と書く事になる。

では、なぜ、能力がないのに書いているのかと訊かれれば、自分自身が成長したいから。

自分自身を知りたいから。

だから、
自分に当てて書いているから。

例え、誰一人読んでくれなくても一切気にすることがなく、僕の文章なんか読んで時間を無駄にしないで、『神との対話』を読んで みてください。
と願っている。

ZEN