2018年9月19日水曜日

『神との対話』に魅せられて


『神との対話』にの本に、
「成長は神の存在の証し」
と書かれてあった。

改めて考えてみると確かにそうだと思わされる。


生まれた子供が歩き始める。

両親の喜びは常軌を逸している。

(ストラスバーグが言っていた。
「もし、子供に歩き方を教えなければ、歩けるようにならないとしたら、10年はかかるだろう」と。)

この美しい奇跡の地球、
日が昇り、花が咲き、鳥が鳴き、河が流れる。

人間はなぜ、この地球に生きているかとゆうと、この世の喜怒哀楽を通して自分自身の成長を体験したいからだという。

しかし、現状は地球規模で考えてみても、それぞれの利権のために土地を破壊し、海はゴミだらけ、空気を汚し、1日何万人が餓死しているのに、分かち合うとはしない。

お互いに不信感を募らせ、自国の優越性を誇示し、不安で家の扉に鍵をいくつも掛けて怯えている。

退化している。 

(この様な状況は、それぞれの個人の心の中にも、起こっている事だと自覚させられる。)

人間が地球規模の大きな危機に直面し、人類一丸となって、それを乗り越える事によって、神からのメッセージ、成長の真の意味を体験できるのだと思う。


天国は、愛と平和、光に満たされ、全てのものが満ち足りていて、幸せであることのこと、天国の様に毎日、明るければ暗闇を体感できない。

そのために神は、地球を存在させた。

幸せを体感させる為にこの地球に暗闇を存在させたと言われる。


まず、天から与えられた、人間の素晴らしさを体験する為に、自分の心の闇を追い出そう。

僕の勝手な思惑かも知れないが、ここ河口湖の合宿でやっている「感情の解放」が、一人、一人の心の暗闇に光を当てる仕事だと確信している。


ZEN


注)僕が『神との対話』について熱い想いで投稿しているが、いわゆる、信者ではない。
ここに書かれていることが人智を超えて、素晴らしいと思っているからだ。
本当に神が存在するかどうかは、死ねば判ると思っている。

2018年9月15日土曜日

感情の解放 レポート

フィーリング・ リベレーション
(感情の解放)


前回のレポートについて
ゼン・ヒラノ

前回のレポートの目的は、ここ河口湖コミュニティーにおいて、健全な自分を取り戻す為に感情の解放の訓練と向き合い、青春の全てを懸けて闘った勇気ある若者たちの記録をみなさんに紹介したいと思ったからである。

僕の永年のサポーターが、こんな体験談をだしたら、人は見向きもしなくなると、大変心配して、是非やめて欲しいと訴えてきた。

僕は、彼らが、自分の真の姿を求めて、勇敢に戦いに挑んだ若者たちの、青春の輝きを伝えたいと願い、十数年前のレポートを掲載した。

例えばある人が、癌に侵された。
健康を取り戻したいと手術を決意した。
医者は患者の要請に従って手術を行った。
たまたま、居合わせた人が血が吹き出すのをみて
「何てひどい事をするんだ!」
と大騒ぎしてわめき散らしたとする。

我々は健康を取り戻したいと戦っただけなのに。

我々教師として 、個々の人間関係に一切関心がない。

我々の関心は個々の 人現関係による抑圧された感情そのものを手放せたかどうかである。

今回は、ある生徒のレポートを紹介することにする。




◆◆◆◆◆

今週からディケアセンターで働き始めた。今まで全く関わりがなく、どちらかと言えば敬遠さえしていた場所だ。でも、一週間働いてみて、本当に勉強になっているし、やりがいも感じている。人と深く関わり合う仕事なので感じることも多い。そこではいろんな生活が見える。一人のおばあちゃんの背中が忘れられない。お年寄りを送り届けると、ほとんどの人が家族に出迎えられるのに対して、そのおばあちゃんは一人、誰もいない部屋へと入っていく。もう大分、認知症も進んでいて、会話をするのも難しいのだが、おばあちゃんは独りで暮らしている。

ある日、そのおばあちゃんを家に送っている時だった。そのおばあちゃんは、他の人が温かく家族に出迎えられている光景を車の窓からじっと見ていた。全く目をそらさないで、何も喋らず、しばらくの間じっとその光景を凝視していた。僕はそんなおばあちゃんの背中を後ろから見ていた。おばあちゃんの背中は誰かの忘れ物のようにじっと固まっていた。

それから、おばあちゃんを独りで暮らす家に送った。おばあちゃんは、家には入らずに、しばらく僕らの乗った車を眺めていて、ときどき手を振った。このおばあちゃんに対して僕がしてあげられること。それはおばあちゃんが週3回来るこの場所をとても楽しく生きがいになるように努力することだと思い、決心した。

どんな職業でもおんなじだ。いい介護とか悪い介護とか、おばあちゃんたちは考えていないのと同じで、観客もいい演技とか悪い演技とか、そんなことは考えていない。ただ感動したくって、大笑いしたくって劇場に足を運ぶ。本当に人を喜ばせることに尽きるのだ。そのことを決して忘れてはならない。全く努力のしない俳優と、ちょっと勉強して俳優よがりな演技をする俳優が本当に多い。僕にもその傾向があると思う。アピールするとはなんたることか。演技を自己主張の道具に、マスターベーションにするとはなんたることか。そんなことをして、お金をもらうとは一体、なんたることか。もし、あのおばあちゃんが、なけなしのお金を払って足を運んだ舞台で、俳優が「おれはメソードをやってるんだ」「どうだ、おれのいい演技を見ろ」みたいなエゴだらけの演技をしていたら、その俳優は本当に死ぬべきだと心から思う。いま、僕は自分に対して言っている。もし、あのおばあちゃんが舞台に足を運ぶのなら、いい演技かどうかなんてどうだっていい。あのおばあちゃんを笑わせてほしいと思うし、感動させてほしいと思う。とにかく「あぁ楽しかった」と言わせてほしい。そして、もし、その舞台に立つ俳優が僕であるならば、僕は本当に裸になろうが、やけどをしようが、絶対にそうしなければならない。いや、絶対にそうしたい。あのおばあちゃんを時間を忘れさせて喜ばせるためなら、喜んで、なんでもしたい。この気持ちを絶対に忘れない。いつも自分に言い聞かせよう。「もし、あのおばあちゃんが、劇場に来ているなら」と。



ゼン先生、ミユキ先生、一週間ありがとうございました。明日もよろしくお願い致します。



◆◆◆◆◆


10数年前のゼン・ヒラノ河口湖コミュニティーは、「荒削りで、タッチング」を目標に掲げてやってきた。
ゼミ生の一人一人は、若さを爆発させ、闇雲に突き進み輝いていた。
美しいと思った。

久し振りにコミュニティー生のレポートを読み、わがままで、勝手気儘な僕を信頼し、全力を尽くして、勇敢に困難な課題に立ち向かった生徒たちに心より感謝しています。
あの当時の青春の輝きを心の片隅に置いて、素晴らしい人生を歩んでください。

ZEN




『神との対話』に魅せられて



本『神と一つになること』の51ページに
「痛みは一つの経験だ。苦しみは、その経験についての判断である。」
と書かれてある。

この言葉に僕は、強く魅了された。

一般に、痛い経験をすると、苦しむ。

然し、痛い経験にあっても苦しまなくて良いのかもしれない。

我々凡人は、痛い目イコール苦しみと解釈する。



最近、姉が他界した。どうゆう訳か悲しいと思わなかった。

大きな事業をやっていたが、倒産し、とても苦しんでいた。

90歳を過ぎての戦いに終止符を打った。

姉は苦しみから解放されたのだとホッとした気持ちもあった。

(兄弟の中で人一倍深い関係にあったので、ある日突然、衝撃を受けて泣き出すかも知れない)

姉の夫、僕の大好きな兄さんは、二週間後、姉の後を追って病院で他界した。

二人は、とても仲が良かったので、天国で幸せな日々を過ごしているのだろうと思っている。

今回の姉の死と云う経験に苦しみを感じなかった。
今、友達や、生徒に手伝って貰って庭に小屋を建てている。

天使達の集う場所にした。

お婆ちゃん、母親、父親、姉夫婦、弟、友人達、そしてストラス バーグもやって来る。


『神との対話』に死は素晴らしい変革の経験だと書かれてある。

上記にあるように死を苦しみと解釈しなくても良いのかも知れない。


僕に、強く印象に残る死の場面の思い出がある。

アクターズスタジオの演技の場面で、一人の俳優が、死を演じて、 ものすごく明るく満面笑みを浮かべながらゆっくりと幸せそうに死んでいった。

その場面が強く印象に残っている。

『神との対話』に書かれているように、死は幸せな時になるよう願っている。

 死を天から与えられた、幸せのイベントと感じられれば、生きることも恐れなくなると『神との対話』に書かれてある。


『前世を記憶する20人の子供』イアン・スティーヴンソンの書いた本がある。

人間は生まれ変わると云う話をとても否定出来ないと思わされる。


死とは?
死後の世界とは?
生まれかわりとは?
等々驚くべきことの数々が、『神との対話』の
最終本『神へ帰る』に詳しく描かれている。

興味のある人は是非一度この本を手に取ってほしいと願っている。

ZEN

2018年9月13日木曜日

感情の解放 レポート



感情の解放
真の自分に出会う

抑圧された感情を全て吐き出し、自分自身を取り戻そう。
以前、十数年にわたって10数人が寝食を共にし、合宿クラスを開いた事がある。
全員、全力投球だった。毎朝、5時に起き2時間の訓練、アルバイトに駆けつけて夜の7時からの訓練に一丸となって励んだ事を記憶している。ここで、学んだ事がそれぞれの人生に役立っている事を心から願っている。
今回のレポートは、本来の自分自身を取り戻す、一生徒の自己変革への壮絶な闘いの記録である。

◆◆◆◆◆

2008年9月2日フィーリングリベレーションを受けて

①何を思い出して何を叫んだか
今日の朝、僕はゼン先生に「いつも、まとまりすぎている。まとめてしまう。」という問題点を指摘された。僕は、バイト中も、そのことをずっと考えていた。「どうにかしないといけない」と強く思った。この問題点を突き抜けないといけないと思った。帰宅後、スタジオに向かった。殻をやぶりたいと思った。体を力強く動かし続け、衝動が来たら、雄たけびをあげた。そして、ストップしないよういした。少しでも何か起これば、突き抜けるために、また体を動かし、声を上げた。そうすると、中から溢れんばかりのエネルギーが来た。自分の持っている真のパワーだと思えた。嬉しかった。みなぎるエネルギーと力強さが全身に流れていた。自分が、普段、いかにまとまっていたのかを知った。

そのあと、10分前にゼン先生に挨拶に行った。そのとき、ゼン先生に、今日の指摘についての大切さを僕は説かれた。挨拶のあと、もう、やるしかないと思えた。いま、解決するしかないと思えた。フィーリング・リベレーションのブレーキングにおいて、突き抜けるために、全エネルギーを賭けようと決意した。それを心に秘めてスタジオで、セッションを待った。

そして、フィーリング・リベレーションの時間が来た。フィーリング・フィベレーション宣言をしたとき、先にスタジオで自主練習したことが影響し、また何かと突き抜けたい思いが重なり、宣言の声や手の上げ方からして、違っているのが解った。そして
宣言の後タタタンPGをしたとき、腕全体で、空気を切ったかのような感触が起こり、ポーズを決めた。

お手手つないでに移った。身振りもいつもの調子ではなく、パターンにならないように必死だった。OPEN YOUR BODYも、体をバラバラに打ち砕くかのごとく、全身を激しく動かした。「子供になる」というセッションの本質から多少ズレてでも、今日はブレーキングにおいて、いつもの調子から突き抜けることを優先して、行った。
そうして行くうちに、子供の僕は、お腹の痛みを抱えていることに向き合いだした。「母ちゃん、母ちゃん、お腹痛いよ!!」「優しくしてよ!!」「なんで、変わったんや!!」など叫び続けた。今日は、ブレーキングが来なくても、常に体を崩し続けた。それも、いつもの調子ではなく、一歩でも先に突き抜けたいがために行った。途中のブレーキングの連続において、少しでも何か衝動が来たら、残さず、外に吐き続けようと、必死にやった。ゼン先生に、ブレーキングの指示が来たら、間髪入れずに、すぐに全力でやっていた。今日の僕は、ブレーキングを求めていた。
特に、貝殻おこし、焼けトタン、クレージーダンス、「水に溺れる」が強烈だった。抑圧された感情によって起きる衝動に、子供の僕は振り回されているかのようだった。セッション中において、起きた衝動は、全て抑圧された感情によって起きたものだった。その苦しい衝動に、体を振り回され痛みを味わった。子供の僕が抱えた苦しみや痛みの大きさを体をバラバラにしていくうちに、浮き彫りになった。
そして、こうしてやっていくうちに、胃の底に、ずっと溜まっていた抑圧された感情を嗚咽とともに、今日吐いた。余ることなく、全部吐いた。一滴残さず吐いた。突き抜けたい意志が、後押ししてくれた。
「怒り」が来た。母を思いっきりぶん殴り、そのあと床に転がっても、蹴り上げた。オオカミで母を噛み切り、ぶん回した。無我夢中だった。「哀しみ」に移ったとき、体が硬直してしまうくらいの哀しみが来た。「愛に対する要求」において、母に抱きついた。湧き上がる感情の渦の中で、必死に抱きついていた。いま思い返せば、意識があるのか無いのか解らない状態だったように思う。母の愛情を欲しいという思いしかなかったかもしれない。
ゼン先生の指示が聞こえ、はりつけと遠吠えで全部吐くことに必死だった。いつもなら、もうこれで良いとしてしまうところの、さらにその先に行くべく、声とともに、残っている感情を口から吐き出すことに邁進した。
波動とP.Gにおいても、ふと、こぼれてきた涙を拭い去るように、120%以上投げ込み、やれた。そして、エンジェルダンスをし、セッションを終えた。

(セッション後)
最後のゼン先生の話を聞いているとき、涙が目に浮かんだ。でも悲しいからではなく、嬉し涙であった。同時に、今日こうして全力でやったことで持てた自分への自身からくる力強さが来た。こうして、自分は今立っている。湧き上がるエネルギーがフツフツ起きる。これが自分だと確信しながらゼン先生の話を聞いていた。ゼン先生が組んだカリキュラムの意味。フィーリング・リベレーションに対するゼン先生の思い。そして、メンバーの人生を大切にしたい思い。僕は、ゼン先生の話を聴きながら、頭ではなく、胸で全てを受け取った。自分が、今日全てを投げ込んだから、ゼン先生の話を胸で受け取れたのだと思える。言葉ではなく、心でゼン先生に感謝した。

②今週のフィーリング・リベレーションに望んで、どんな用意をしたか?
課題・・・①で書いたように、ブレーキングにおいて突き抜ける課題を心に秘めて、セッションを待った。
結果・・・ブレーキングに全てを賭けた。すると、何か表面がはがされ、隠れていた抑圧された感情が浮かび上がってきているような感じになって、そのとき吐き気がして、一気に吐くことができた。
③今週の課題と、その結果について
課題・・・ブレーキングにおいて、突き抜けること。
結果・・・今日この課題に投げ込んだことは、フィーリング・リベレーションだけでなく、自分のこれからに通じるものだ。一度だけに終わらないようにしにといけない。一度だけで終わってしまうと、また元に戻る。
④小さいときの深い傷口に触れることを妨げているのは何か?
あと一歩突き抜けられないで、停滞しようとすること。
⑤それに対しての具体的な言動
その瞬間に全てを投げ込む。そして、突き抜ける。
⑥自分の洞察
まとまってしまって、突き抜けることをしないから、不安が訪れて、自信が無い。それを続けながら、どれだけ演技の訓練を続けて技量を高めても、いつまでも「まだだ、まだだ。」と僕は、やるだろう。今日、ゼン先生に問題点を突きつけられ、最近ずっと続いていた悩みがどうしてそうなるのか、ということと、そして、現状を打破するヒントを僕は与えられたと思えた。
本当は、僕は弱くないんだ。荒々しいし、気性も激しい。人と足並みをそろえたくない。こじんまりした人間でなく、もっと激しくダイナミクでもあるはずだ。人に強制されたり、流れに乗ることを極端に嫌うのも、それだけ一個の人間でありたいと思うからだ。でも、実際には、逆のことをしている。まとまろうとして、湧き上がる衝動を吐こうとしない。まるで能力を出し切っていない気がする。だから、僕は苦しいのだと思う。もう、自分を生きていないのだ。今日のフィーリング・リベレーションとゼン先生からの指摘から、これから進むべき方向はハッキリとしたので、あとは、やるだけだと思えた。もう、やるしかないのだ。自分自身も最近危機感を感じていたので、やるしかない。突き抜けるしか、この現状を突破することが出来ないのだ。
⑦最近の自分の変化について気づいたことは何か
ここまで、レポートで文章を長々と書いたが、もはややるしかない。いまの自分は、本当にやるしかない。「最近の変化」とは、そこまで自分が来ているということだ。ゼン先生の言う通り、もうレポートを書くことによってのみ留まっていられない。そういう現状にあることをハッキリと認識しておきます。
⑧今回のセッションで感謝できたことは何か
今日の、ゼン先生の言葉を僕は先ほども書きましたが、胸で、しっかりと受け取りました。自分の人生が、このフィーリング・リベレーションで懸かっているわけだし、ゼン先生に言われたからするのではなく、自らで全力で立ち向かうしか、他にありません。責任を持って、来週も行います。来週もよろしくお願いします。人生を変えるべく立ち向かいます。ゼン先生、本日もフィーリング・リベレーションをいただきまして、ありがとうございました。
⑨フィーリングリベレーション宣言
「私が、いつも、まとまってしまって突き抜けられない理由がフィーリング・リベレーショで解りました。これは、抑圧された感情だ。かかずりあうなと、声をかけ一歩前に出ます。タタタン、タタタン、GOGOGO!!」


◆◆◆◆◆

注)(感情の解放の目的に就いて一言)幼児期に抑え込まれた感情が、その人の人生に常に付き纏い、自分や他人に対しての不信感を生む。
この感情の解放は、心の汚れを掃き出そうという試みです。その人の生き方を歪め、暗いものにする身体の何処かにこびりついた否定的な感情を、意識的に体を緩め、動かし胸からの声に乗せて掃き出そうと言う試みです。健全な人をより健全な人にする、本来の自分らしさを取り戻す試みです。(我々は、病的な人を一切取り扱いません。それは、医者の仕事です。)
この感情の解放の結果として、人間本来の明かるさを取り戻す、人に優しくなる、親に対する思い遣りが深まる等々です。
10数年前の当時コミュニティーは、日々寝食を共にし、みゆきと僕の指導のもとに日々訓練をつずける事ができました。
現在、短期合宿クラスを開いていますが、感情の解放(フィーリング・ リベレイション)は、個人の自由意思に任せています。生徒は世間から完全に隔離された三階の100畳敷の広いスタジオで、いつでも好き勝手な時間に駆け上がって大声を出して暴れ回っていますが大変な効果があると思っています。
感情の解放(フィーリング リベレイション)は、心の汚れを掃き出して、風通しを良くするのが目的です。

ZEN

2018年9月9日日曜日

感情の解放



今朝の出来事

今朝、奇妙な体験をした。

朝、5時に起きて、妻ミユキと犬を連れ、隣にある美しい公園に散歩に出かけた。

前日の嵐で大きな木があちこちで何本も荒れ果てた景色に一変していた。

公園を一周してから、いつものように富士山の見えるお気に入りの、自宅のエンジェル ティーハウスで朝食をとった。

途中気分が悪くなり、ミユキに助けられ、いつ倒れるか不安の思いでベッドルームに辿り着き横になった。

いつの間にか眠りに落ちていた。



夢を見た。

僕のクラスを受けにきた人達が、お寺の休憩所のような畳敷きの広い部屋に三十人ほどの人々集まってきた。

僕を信頼してやってきた人達、無関心な人達、不信感を持っている人達等々。

僕は、右手に短い棒のようなものを持ち、ところかまわず打ち鳴らし、一人一人の顔を覗き込みながら訳も分からない事を大声でまくし立てていった。

こんな事をしたらクラスがメチャメチャになる、信頼感を失うことになるなど、どこかで知りながらもわめき散らし、右手に持った棒で左手の鐘を叩き部屋中を駆け回った。

そのうち、抑えが効かなくなった。

周りにあった家具をけとばし、放り投げ、大声で叫びながら駆けずりまわり、めちゃめちゃに暴れ回った。

どこかで心の片隅でまずいなと一瞬思ったが、気狂じみた衝動を止める事が出来なかった。

わめき散らしながらジャンプして頭から落ちた。

狂気の真っ只中、嵐のように、見境なく、全てのものを破壊尽くしていった。

自分の永年にわたって築き上げた価値観をも。

そして、深い眠りに落ちたらしい。


眼が覚めると、場所も時間も定かではなく静かな気持ちで眼が覚めた。

5,6時間経っていた。


台風一過、嵐の後の静けさ、ベッドの上で静かに何の不安も、苦しみも無く空白の中に、目覚めた自分がいた。


この、静けさを体験するためには、嵐を呼び起こす感情を解放する必要があるかもしれないと思った。


キューブラ・ロスは言っていた。

「この渓谷を嵐から守るために、覆いを被せたら、あの渓谷美を目の当たりにすることは出来ないと。」

感情を解放してみよう!


ZEN


2018年9月5日水曜日

第23回 ザ・メソード演技訓練の実際


自分らしさについて

俳優であろうがなかろうが、全ての人は、自分らしく生きたいと言う。

自分らしいということは、どういうことだろう?

自分の考えたこと、感じた事、望んだ事を即、なんの躊躇もなく表現し行動に移す。

それができるのは、子供達だ。

全ての感情、欲求を(泣いたり、笑ったり、怒ったり、欲しがったり)露わにする。

しかし、我々は一定の年齢に達すると社会に順応するために、親から、周囲から、
「ああしてはいけない」「こうしてはいけない」「こうしなければいけない」「ああしなくてはいけない」
と教え込まれる。

もちろんある年齢に達すれば子供のように裸で表に飛び出すわけにはいかない。
何が起きるか知っているからだ。

問題は、自分らしくありたいという衝動、自分らしさを表現しようとすると、「気をつけろ!」と声がしてブレーキをかけることになる。

教え込まれて警戒心、不安のために常にブレーキをかける。

そして、自分らしさを失っていく。


自分らしさを取り戻すには、不必要に、習慣的にブレーキを掛けないことだ。

地震等、物理的な不安は別として、不安は誰かが、あなたの頭に置いたものだ。

これらの不安を抱えて、あなたは、あなたらしく生きていくことはできない。

あなたがあなたらしく生きていくためには、体のあちこちにしがみついている不安(抑圧された感情)を見つけ出し、体を動かし引き剥がし声とともに外に吐き出すことだ。

僕は、これを「感情の解放」と呼んでいる。

俳優にとっても、一般社会人にとっても、自分らしく生きるために、人間本来の明るさ、生き生きさを取り戻すために、先ず第一に手がけるべきは、この感情の解放だと永年の経験を通して、確信している。

ZEN