2018年9月15日土曜日

感情の解放 レポート

フィーリング・ リベレーション
(感情の解放)


前回のレポートについて
ゼン・ヒラノ

前回のレポートの目的は、ここ河口湖コミュニティーにおいて、健全な自分を取り戻す為に感情の解放の訓練と向き合い、青春の全てを懸けて闘った勇気ある若者たちの記録をみなさんに紹介したいと思ったからである。

僕の永年のサポーターが、こんな体験談をだしたら、人は見向きもしなくなると、大変心配して、是非やめて欲しいと訴えてきた。

僕は、彼らが、自分の真の姿を求めて、勇敢に戦いに挑んだ若者たちの、青春の輝きを伝えたいと願い、十数年前のレポートを掲載した。

例えばある人が、癌に侵された。
健康を取り戻したいと手術を決意した。
医者は患者の要請に従って手術を行った。
たまたま、居合わせた人が血が吹き出すのをみて
「何てひどい事をするんだ!」
と大騒ぎしてわめき散らしたとする。

我々は健康を取り戻したいと戦っただけなのに。

我々教師として 、個々の人間関係に一切関心がない。

我々の関心は個々の 人現関係による抑圧された感情そのものを手放せたかどうかである。

今回は、ある生徒のレポートを紹介することにする。




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今週からディケアセンターで働き始めた。今まで全く関わりがなく、どちらかと言えば敬遠さえしていた場所だ。でも、一週間働いてみて、本当に勉強になっているし、やりがいも感じている。人と深く関わり合う仕事なので感じることも多い。そこではいろんな生活が見える。一人のおばあちゃんの背中が忘れられない。お年寄りを送り届けると、ほとんどの人が家族に出迎えられるのに対して、そのおばあちゃんは一人、誰もいない部屋へと入っていく。もう大分、認知症も進んでいて、会話をするのも難しいのだが、おばあちゃんは独りで暮らしている。

ある日、そのおばあちゃんを家に送っている時だった。そのおばあちゃんは、他の人が温かく家族に出迎えられている光景を車の窓からじっと見ていた。全く目をそらさないで、何も喋らず、しばらくの間じっとその光景を凝視していた。僕はそんなおばあちゃんの背中を後ろから見ていた。おばあちゃんの背中は誰かの忘れ物のようにじっと固まっていた。

それから、おばあちゃんを独りで暮らす家に送った。おばあちゃんは、家には入らずに、しばらく僕らの乗った車を眺めていて、ときどき手を振った。このおばあちゃんに対して僕がしてあげられること。それはおばあちゃんが週3回来るこの場所をとても楽しく生きがいになるように努力することだと思い、決心した。

どんな職業でもおんなじだ。いい介護とか悪い介護とか、おばあちゃんたちは考えていないのと同じで、観客もいい演技とか悪い演技とか、そんなことは考えていない。ただ感動したくって、大笑いしたくって劇場に足を運ぶ。本当に人を喜ばせることに尽きるのだ。そのことを決して忘れてはならない。全く努力のしない俳優と、ちょっと勉強して俳優よがりな演技をする俳優が本当に多い。僕にもその傾向があると思う。アピールするとはなんたることか。演技を自己主張の道具に、マスターベーションにするとはなんたることか。そんなことをして、お金をもらうとは一体、なんたることか。もし、あのおばあちゃんが、なけなしのお金を払って足を運んだ舞台で、俳優が「おれはメソードをやってるんだ」「どうだ、おれのいい演技を見ろ」みたいなエゴだらけの演技をしていたら、その俳優は本当に死ぬべきだと心から思う。いま、僕は自分に対して言っている。もし、あのおばあちゃんが舞台に足を運ぶのなら、いい演技かどうかなんてどうだっていい。あのおばあちゃんを笑わせてほしいと思うし、感動させてほしいと思う。とにかく「あぁ楽しかった」と言わせてほしい。そして、もし、その舞台に立つ俳優が僕であるならば、僕は本当に裸になろうが、やけどをしようが、絶対にそうしなければならない。いや、絶対にそうしたい。あのおばあちゃんを時間を忘れさせて喜ばせるためなら、喜んで、なんでもしたい。この気持ちを絶対に忘れない。いつも自分に言い聞かせよう。「もし、あのおばあちゃんが、劇場に来ているなら」と。



ゼン先生、ミユキ先生、一週間ありがとうございました。明日もよろしくお願い致します。



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10数年前のゼン・ヒラノ河口湖コミュニティーは、「荒削りで、タッチング」を目標に掲げてやってきた。
ゼミ生の一人一人は、若さを爆発させ、闇雲に突き進み輝いていた。
美しいと思った。

久し振りにコミュニティー生のレポートを読み、わがままで、勝手気儘な僕を信頼し、全力を尽くして、勇敢に困難な課題に立ち向かった生徒たちに心より感謝しています。
あの当時の青春の輝きを心の片隅に置いて、素晴らしい人生を歩んでください。

ZEN