2017年5月28日日曜日

第24回 『神との対話』のすすめ




≪抑圧された感情について≫

~前回に続く~

心を開き、感情を外の世界に解き放つには、二つの方法がある。
強制するか、煽てるかだ。
泳ぎを覚えさせるのに似ている。
プールに放り込むか(二度と水に近づかなく危険性がある)、
又は、おだてるかだ。
「坊や、こちに来てごらん。お水に足をつけてごらん。 冷たくて気持ちいいでしょー、膝までお水に浸かってみよう。 出来た! 出来た! 偉いねー・・・」とか言いながら。
一般の人達の心のわだかまりを解放するのに、後者の方法をとる。
余談になるが、日本のトップと言える俳優たちのほとんどが、自分の人生で一度か二度経験した深い感情(挫折感、喪失感、孤独感、愛)等を自分の過去の体験から意識的に引き出して役を全うさせるのを見たことがない。
演技は体験の芸術だ。
自分の秘められた深い感情を役のために捧げる神聖な仕事だ。
俳優たる者、プールに飛び込むのではなく、激流に身を投げろ!
昔は、歌舞伎の世界でも偉大な役者がいた事だろう。
彼らは驚くべき美しい型を残した。
偉大な魂なくして、偉大な型は生まれない。
外国でも、日本でも昔、役者は、毎晩舞台に上がらなければ、お金は貰えない。


当時、海外公演といえば、何日も何日も船に揺られ、太陽の浮き沈みを、満天の星を目のあたりにし、人生の尊さ、はかなさを胸の奥深く、魂で感じ取ったのだと思う。
寿命も短かった。

我々の今の時代は、テクノロジーやクレーンを使っての高層ビルは乱立したが、畏敬の念を起こさせるような偉大なものは何も見当たらない。日本の神社仏閣、ギリシャの建造物等は、人の手で切り出し、人の手で運び、人の手で積み上げたのだ。

何年か前に、サン・ピエトロ大聖堂ミケランジェロのピエタと対面したが、天界から今舞い降りてきたという異様な、近寄りがたい聖なる美しさがあった。
今、思い出しても、目頭が熱くなる。
システィーナ礼拝堂の天井壁画、ダビンチのモナリザ、ベートーヴェン、モーツァルト等、人類の偉大なる痕跡を残している。
現代では、一本映画に出演すれば何億円、
海外公演は一晩飛行機に乗れば現地に着く。

こんな時代に偉大なものが産まれるはずはない。
偉大なものといえば、百年以上前のカルーソーの歌声が78回転のレコードに残っている。
蓄音機から鳴り響く彼の歌声は、クラシックに全く関心の無い人も息をひそめ、静かに耳を傾け感慨に耽る。
(当時、カルーソーが唄い終わると、聴衆は劇場の周りをうろついて、長い間立ち去らなかっと云われる。)
「偉大なる芸術は、人々に沈黙を強いる。」と。
太陽が、ギラギラと水平線の彼方に沈んで行くのを目撃するときのように。
(現代は拍手の大安売り。)
昔の偉大なる俳優たちのフィルムは、残っていない。
ただ一人シャリアピンという歌手が、映画ドンキホーテで演技の偉大さの片鱗を見せてくれている。
(ただ、歩いているだけなのに)
俳優が自分の秘められた感情を出せないなんて以ての外。
(それが俳優の仕事だから。)
激流に叩き込んでやれば良い。
泳げるようになるか、二度と水に近づかなくなる。
いいことだ。

我々の今の時代は、テクノロジーやクレーンを使っての高層ビルは乱立したが、畏敬の念を起こさせるような偉大なものは何も見当たらない。
現代では、一本映画に出演すれば何億円、
こんな時代に偉大なものが産まれるはずはない。
偉大なものといえば、百年以上前のカルーソーの歌声が78回転のレコードに残っている。
恩師ストラスバーグは言っていた。
太陽が、ギラギラと水平線の彼方に沈んで行くのを目撃するときのように。
昔の偉大なる俳優たちのフィルムは、残っていない。
ただ一人シャリアピンという歌手が、映画ドンキホーテで演技の偉大さの片鱗を見せてくれている。
俳優が自分の秘められた感情を出せないなんて以ての外。
泳げるようになるか、二度と水に近づかなくなる。
いいことだ。
だいぶ、横路に逸れたが、
飢餓も終わる。
我々 、
抑圧された感情から
人を愛し、
自分を愛し、
この奇跡の地球に
人類が待ち望んだ
ZEN
(感情の解放は次週に続く。)